関ヶ原の戦いにおいて、敵中突破という前代未聞の撤退戦を支えた若き武将・島津豊久をご存じでしょうか。西軍が総崩れとなる中、叔父・島津義弘を逃がすために自ら殿(しんがり)を引き受け、烏頭坂(うとうざか)で東軍の猛追を食い止めて壮絶な最期を遂げた豊久は、「島津の退き口」の英雄として語り継がれています。岐阜県大垣市上石津町の烏頭坂には島津豊久碑が建てられており、命を賭して義弘を守った豊久の忠義と勇気を今に伝えています。この記事では、島津豊久碑の見どころ、豊久の波乱に満ちた生涯、関ヶ原での壮絶な戦い、そして島津の退き口の全貌まで詳しく解説していきます。
- 島津豊久碑の場所と歴史的意義
- 日向佐土原の若き領主・豊久の生涯
- 関ヶ原の戦いと島津の退き口の全貌
- 烏頭坂での壮絶な殿戦と豊久の最期
島津豊久碑とは?烏頭坂に残る英雄の記憶
大垣市上石津町の烏頭坂に立つ顕彰碑
島津豊久碑は、岐阜県大垣市上石津町牧田の烏頭坂(うとうざか)に建てられた顕彰碑です。この場所は、関ヶ原の戦いにおいて島津義弘隊が敵中突破の撤退戦「島津の退き口」を敢行した際、豊久が東軍の追撃を食い止めるために壮絶な殿戦を繰り広げた場所として知られています。顕彰碑は烏頭坂の坂道沿いに設置されており、周囲は木々に囲まれた静かな場所です。碑の前に立つと、400年前にこの坂道で豊久が井伊直政や松平忠吉の軍勢と激闘を繰り広げた光景が目に浮かぶようです。島津の退き口は関ヶ原の戦いの中でも最も劇的なエピソードのひとつであり、その舞台となった烏頭坂は歴史ファンにとって聖地とも言える場所となっています。碑の周囲は緑豊かな自然に包まれており、激戦の地とは思えないほど静かな空間が広がっています。しかしこの穏やかな風景の中にかつて壮絶な殿戦が繰り広げられたのだと思うと、歴史の重みを改めて感じずにはいられません。
烏頭坂の地形と戦略的意義
烏頭坂は関ヶ原から南方に向かう旧伊勢街道沿いの坂道で、山間の狭い地形が特徴です。この地形は大軍が展開しにくく、少数の兵でも追撃部隊を足止めできる防御に適した場所でした。島津豊久はこの地形を利用して東軍の追撃部隊を迎え撃ち、叔父・義弘の撤退を可能にしたのです。坂道の両側は山林に覆われており、追撃する側にとっては待ち伏せの危険がある難所でした。豊久はこの地理的利点を最大限に活かし、捨て奸(すてがまり)と呼ばれる島津家伝統の殿戦術を展開して東軍を食い止めました。現在の烏頭坂は整備された道路となっていますが、周囲の山々の地形は当時とほとんど変わっておらず、合戦当時の状況を想像する手がかりとなっています。
島津塚と瑠璃光寺近くの墓
島津豊久碑のほかにも、豊久にまつわる史跡が周辺に残されています。旧伊勢街道沿い、瑠璃光寺近くの林の中には「島津塚」と呼ばれる豊久の墓が建立されています。この墓は、烏頭坂での激闘で重傷を負った豊久が最期を迎えたとされる場所に近く、地元の人々によって大切に守られてきました。墓の周囲は静寂に包まれた林の中にあり、戦場の喧騒とはかけ離れた穏やかな雰囲気が漂っています。豊久の遺体がここに埋葬されたとする説がある一方、薩摩に運ばれたとする伝承もあり、真相は定かではありません。しかし島津塚は、豊久の壮絶な最期を物語る貴重な史跡として、現在も多くの歴史ファンが訪れています。墓石は素朴な造りですが、400年以上にわたって地元の人々に守られてきたことに、歴史の継承の大切さを感じることができます。
関ヶ原古戦場との位置関係
島津豊久碑がある烏頭坂は、関ヶ原の戦場から南方に約5キロメートルの位置にあります。島津義弘の本陣があった場所から南に向かって敵中突破し、この烏頭坂に至るまでの経路が「島津の退き口」のルートです。関ヶ原の主戦場と烏頭坂を結ぶルートを実際に辿ることで、島津隊がどれほど長い距離を戦いながら退却したかを体感することができます。関ヶ原の主戦場からはやや離れた場所にあるため、古戦場めぐりの中では見落とされがちですが、島津の退き口を理解するためには欠かせない史跡です。関ヶ原駅前からレンタサイクルで訪れる場合はやや距離がありますが、車であれば関ヶ原の主要な陣跡から20分程度で到着できます。島津義弘陣跡と豊久碑をセットで訪れることで、退き口の全体像をより深く理解することができるでしょう。
鹿児島との深い縁
島津豊久碑は、遠く離れた鹿児島県との深い縁を持つ史跡です。豊久は薩摩国(現在の鹿児島県)を本拠とする島津家の一族であり、日向国佐土原(現在の宮崎県宮崎市佐土原町)の領主でした。関ヶ原の戦いから400年以上が経過した現在でも、鹿児島県や宮崎県から豊久碑を訪れる人は少なくありません。薩摩の地から遠く離れた岐阜の山中で命を落とした豊久への想いは、時を経てもなお薩摩の人々の心に深く根づいています。島津家の子孫による慰霊祭が行われることもあり、薩摩と岐阜をつなぐ歴史的な絆が今も大切にされています。豊久が叔父・義弘を守るために命を捧げた忠義の精神は、島津家の誇りとして鹿児島の人々の心に深く刻まれているのです。
島津豊久の生涯:日向佐土原の若き領主
島津家久の子として生まれる
島津豊久は元亀元年(1570年)、島津家久の子として薩摩国に生まれました。島津家久は島津四兄弟の末弟として知られる勇将であり、沖田畷の戦いでは龍造寺隆信を討ち取る大功を挙げた武将です。豊久は父の血を引く勇敢な気質を持ち、幼少期から武芸の鍛錬に励んだとされています。初めは「忠豊」と名乗っていましたが、のちに「豊久」と改名しています。島津家は薩摩・大隅・日向の三国を支配する九州屈指の大名であり、豊久はその名門の一員として恵まれた環境で成長しました。しかし天正15年(1587年)の豊臣秀吉による九州征伐により、島津家は秀吉に降伏し、所領は大幅に削減されることになります。
父・家久の死と佐土原城主への就任
天正16年(1588年)、父・島津家久が急死しました。家久の死因については病死とも、豊臣政権への臣従に反対する勢力による毒殺とも伝えられていますが、真相は定かではありません。父の死後、わずか18歳の豊久は日向国都於郡・佐土原などの所領を継ぎ、佐土原城主となりました。若くして一城の主となった豊久は、領国経営に努めるとともに、島津本家との関係を維持しながら家臣団の統率にあたりました。佐土原は日向国の要衝であり、豊久はこの地を拠点として島津家の一翼を担う存在へと成長していきます。父の遺志を継いだ若き領主は、やがて朝鮮出兵や関ヶ原の戦いという大きな戦場で、その真価を発揮することになるのです。
朝鮮出兵での武功
文禄元年(1592年)に始まった文禄・慶長の役(朝鮮出兵)において、豊久は叔父・島津義弘に従って朝鮮半島に渡り、数々の戦闘で武功を挙げました。特に慶長2年(1597年)の漆川梁海戦では、豊久は敵船に飛び移って敵兵を次々と斬る凄まじい戦いぶりを見せ、「豊久跳んで敵船に移り、敵を斬ること麻の如し」と記録されるほどの活躍ぶりでした。また慶長3年(1598年)の泗川の戦いでは、島津義弘率いる約7,000の兵が明・朝鮮連合軍の大軍を撃破するという大勝利に貢献しています。朝鮮出兵での経験は豊久を歴戦の武将へと成長させ、関ヶ原の戦いでの壮絶な殿戦を可能にする実戦力の基盤となったのです。
📜 歴史メモ
泗川の戦いは、島津義弘率いる約7,000の兵が数万とも言われる明・朝鮮連合軍を撃破した合戦です。この勝利により義弘は明国から「鬼石曼子(グイシーマンズ)」と恐れられるようになりました。豊久もこの戦いで大いに活躍し、義弘の信頼をさらに深めました。
関ヶ原に至るまでの経緯
慶長5年(1600年)、石田三成と徳川家康の対立が決定的となり、天下分け目の合戦が迫る中、島津家は複雑な立場に置かれていました。島津義弘は当初、東軍として家康に味方する意向を示していましたが、伏見城に入ることを拒まれたため西軍に与することになったとされています。豊久は義弘に従って西軍に参加し、関ヶ原の戦場に臨みました。島津隊の兵力は約1,500人程度と、関ヶ原に参戦した他の大名に比べて少数でしたが、朝鮮出兵で鍛えられた精鋭揃いであり、その戦闘力は侮れないものがありました。豊久は義弘の右腕として合戦に臨み、先手として重要な役割を担うことになります。なお、島津義弘が西軍に参加した経緯については、家康から伏見城への入城を断られたため止むなく西軍に付いたとする説が広く知られていますが、この点については諸説あり、定説は確立していません。
わずか30歳で散った若き猛将
関ヶ原の戦いで命を落としたとき、島津豊久はわずか30歳でした。戦国時代においても30歳は若い部類に入り、これからますます武将として成長する可能性を秘めた年齢です。朝鮮出兵で鍛えられた実戦経験と、父・家久譲りの勇猛さを兼ね備えた豊久が、もし関ヶ原で生き延びていたならば、江戸時代の島津家においてどのような役割を果たしたかは想像するしかありません。しかし豊久は義弘を守るために自ら死地に飛び込むことを選び、30歳の若さでその生涯を閉じました。この若すぎる死は、豊久の忠義の深さと覚悟の固さを物語るものであり、後世の人々の心を打つ理由のひとつとなっています。父・家久もまた40歳という若さで亡くなっており、島津一族の中でも短い生涯を駆け抜けた父子として記憶されています。豊久がもう少し長く生きていれば、島津家の歴史はまた違ったものになっていたかもしれません。
関ヶ原の戦いと島津の退き口
合戦における島津隊の位置と動き
関ヶ原の戦いにおいて、島津義弘隊は西軍の一角として戦場のほぼ中央付近に陣を構えていました。しかし島津隊は合戦開始後もしばらく積極的な戦闘に参加せず、様子を見る姿勢をとっていたとされています。この消極的な態度の理由については諸説ありますが、石田三成との関係が良好でなかったことや、兵力が少なかったために無駄な消耗を避けたかったことなどが挙げられます。しかし西軍が総崩れとなった段階で、島津隊は前代未聞の行動に出ます。通常の撤退であれば後方に退くところを、あえて東軍の陣を突破して前方に進むという「前進退却」を敢行したのです。この大胆な決断が「島津の退き口」として歴史に名を刻むことになりました。義弘が前進退却を選んだのは、後方に退くよりも東軍が予想していない方向に突破するほうが生存の可能性が高いと判断したためとも言われています。
前進退却という前代未聞の決断
西軍が崩壊する中、島津義弘は撤退のルートとして驚くべき選択をしました。後方に退くのではなく、東軍の陣を突破して家康の本陣の前を駆け抜けるという前進退却です。この決断の背景には、後方が西軍の崩壊する混乱で塞がれていたことに加え、前方を突破して伊勢方面に抜けるほうが薩摩への帰国の可能性が高いという判断があったとされています。前進退却は敵陣のど真ん中を突き進む極めて危険な行動ですが、あまりの大胆さに東軍が一瞬対応を遅らせたことで、島津隊は突破に成功します。しかし東軍もすぐに追撃態勢を整え、島津隊に対して熾烈な追撃を開始しました。ここから始まるのが、豊久が命を賭して義弘を守る壮絶な殿戦です。
捨て奸:島津家伝統の殿戦術
島津の退き口において用いられた「捨て奸(すてがまり)」は、島津家に伝わる特殊な殿戦術です。この戦術は、撤退する本隊を守るために少数の兵士が道に留まり、追撃してくる敵に対して死ぬまで戦い続けるというものです。一組の捨て奸が全滅すると、次の組がさらに後方で敵を食い止めるという形で繰り返し行われます。文字通り命を捨てて「奸(かまり)=座り込む」戦術であり、捨て奸に指名された兵士は生きて帰ることは期待されていませんでした。この壮絶な戦術により、島津隊は追撃する東軍を何度も足止めし、義弘の撤退を可能にしたのです。捨て奸は島津家の勇猛さと忠義を象徴する戦術として、現在も高い関心を集めています。捨て奸に選ばれた兵士たちは、死を覚悟したうえで静かに座り込み、追撃してくる敵に対して至近距離から銃を撃ち、刀で斬りかかるという壮絶な戦いぶりを見せました。
島津豊久の殿戦と烏頭坂の激闘
前進退却を開始した島津隊に対して、東軍は井伊直政と松平忠吉を中心とする追撃隊を差し向けました。先手を務めていた豊久は、この追撃を食い止めるために自ら殿にまわることを申し出たとされています。烏頭坂の狭い坂道で追撃部隊と対峙した豊久は、捨て奸の戦術を展開しながら東軍の進撃を必死に食い止めました。この激闘の中で豊久は重傷を負いましたが、それでも戦い続けたと伝えられています。豊久の壮絶な抵抗により、東軍の追撃は大幅に遅延し、義弘は伊勢方面へと逃れることに成功しました。豊久は最後の力を振り絞って東軍に立ち向かい、自らの命と引き換えに義弘の脱出路を確保したのです。豊久が烏頭坂で見せた戦いぶりは、島津の退き口の中で最も壮絶な場面として語り継がれています。
長寿院盛淳の捨て身の戦い
豊久とともに殿戦で壮絶な戦いを見せたのが、島津家の重臣・長寿院盛淳(ちょうじゅいんもりあつ)です。盛淳は義弘の身代わりとなって討ち死にしたとも伝えられており、義弘の鎧兜を着用して敵を引きつけることで義弘の脱出を助けたとする逸話が残されています。豊久と盛淳の二人が命を賭して殿を務めたことで、義弘は追撃から逃れて薩摩への帰国を果たすことができたのです。盛淳の自己犠牲もまた、島津家の忠義の精神を体現するものとして、豊久と並んで顕彰されています。二人の壮絶な殿戦がなければ、島津の退き口は成功しなかったと言っても過言ではないでしょう。
島津の退き口の全貌と意義
退却ルートの詳細
島津の退き口のルートは、関ヶ原の戦場から南方に向かって伊勢街道を進むものでした。義弘隊は家康の本陣の前を駆け抜けた後、南に転じて牧田方面へと進軍しました。烏頭坂で豊久と盛淳が東軍の追撃を食い止めている間に、義弘は少数の供回りとともに伊勢方面に脱出しています。その後、義弘は伊勢から海路で紀伊半島を回り、最終的には薩摩へと帰還を果たしました。退き口の全行程は数百キロメートルにも及ぶ長大なものであり、途中で多くの将兵が命を落としています。関ヶ原出陣時に約1,500人いた島津隊は、薩摩に帰還した時点ではわずか80人程度にまで減っていたとされています。
✅ 島津の退き口のポイント
✓ 後方ではなく前方の敵陣を突破する「前進退却」を選択
✓ 捨て奸(すてがまり)戦術で追撃部隊を繰り返し足止め
✓ 島津豊久と長寿院盛淳が殿を務めて討死
✓ 約1,500人の兵のうち帰還できたのはわずか80人程度
井伊直政の負傷と退き口への追撃
島津の退き口を追撃した東軍の中で、特に執拗に追いかけたのが井伊直政と松平忠吉でした。井伊直政は「井伊の赤備え」として知られる精鋭部隊を率い、島津隊に対して激しい追撃を仕掛けています。しかしこの追撃戦において、直政は島津隊の銃撃により銃弾を受けて負傷しました。松平忠吉もまた負傷しており、島津隊の抵抗がいかに激しいものであったかがうかがえます。直政のこの傷は後に悪化し、慶長7年(1602年)に直政が死去した一因ともされています。追撃する側もまた大きな犠牲を払うほどの激闘が、烏頭坂を中心に繰り広げられていたのです。井伊直政の負傷は、島津隊の抵抗がいかに熾烈であったかを示す象徴的な出来事であり、豊久ら殿部隊の奮戦がなければ直政が負傷することもなかったでしょう。
義弘の薩摩帰還と島津家の存続
豊久や盛淳の犠牲により東軍の追撃を振り切った島津義弘は、伊勢から海路で薩摩へと帰還を果たしました。関ヶ原の戦いで西軍に属した大名の多くが改易(領地没収)や減封の処分を受ける中、島津家は徳川家康との交渉により本領安堵を勝ち取っています。島津家が処分を免れた背景には、薩摩という遠隔地への遠征が困難であったことや、島津家の軍事力への警戒など複数の要因がありました。結果として島津家は77万石の所領を維持し、江戸時代を通じて外様大名として存続しました。のちに薩摩藩は幕末の雄藩として明治維新を主導することになり、島津家は日本の近代化に大きな役割を果たすことになります。豊久が命を賭して守った義弘の帰還は、島津家の存続という大きな成果につながったのです。
島津の退き口が後世に与えた影響
島津の退き口は、関ヶ原の戦いの中でも最も劇的なエピソードとして広く知られ、後世に大きな影響を与えました。豊久や盛淳の自己犠牲は、島津家の「忠義と勇猛」の象徴として代々語り継がれ、薩摩武士の精神的支柱のひとつとなりました。この精神は幕末の薩摩藩にも受け継がれ、明治維新を推進する力のひとつになったとも評されています。また、敵中突破という前代未聞の戦術は軍事史においても注目を集め、近代の軍事研究でも取り上げられることがあります。島津の退き口は単なる撤退戦ではなく、絶望的な状況から活路を切り拓く不屈の精神を体現した物語として、時代を超えて人々の心を打ち続けているのです。
島津豊久と漫画「ドリフターズ」の世界
平野耕太の漫画作品での描写
島津豊久は、漫画家・平野耕太による漫画「ドリフターズ」の主人公として描かれたことで、現代の若い世代にも広く知られるようになりました。この作品では、関ヶ原の戦いで命を落とした豊久が異世界に転生し、織田信長や那須与一といった歴史上の人物とともに戦う姿が描かれています。豊久は作中で勇猛かつ豪快な性格として描かれており、薩摩武士としての誇りと戦闘力が存分に発揮されています。漫画はアニメ化もされ、島津豊久という武将の知名度を飛躍的に高めることに貢献しました。「ドリフターズ」は2016年にアニメ放送が開始されて以降、国内外で大きな反響を呼び、それまで歴史ファン以外にはあまり知られていなかった豊久の名が広く浸透するきっかけとなりました。
フィクションと史実の違い
「ドリフターズ」はフィクション作品であり、史実とは異なる点も多くありますが、関ヶ原の戦いにおける豊久の殿戦や島津の退き口の描写は、おおむね史実に基づいたものとなっています。作品の冒頭で描かれる烏頭坂での激闘シーンは、実際の合戦記録にも合致する部分が多く、読者に歴史への関心を喚起する入口として機能しています。フィクションをきっかけとして史実に興味を持ち、実際に関ヶ原の陣跡や豊久碑を訪れる歴史ファンも増えており、漫画が歴史観光を促進する好例となっています。
ドリフターズファンの聖地巡礼
「ドリフターズ」の影響により、島津豊久碑は漫画ファンにとっての聖地巡礼スポットとしても人気を集めています。烏頭坂の豊久碑や島津塚を訪れるファンは年々増加しており、漫画のシーンと実際の地形を重ね合わせながら歴史散策を楽しむ人の姿が見られます。関ヶ原の島津義弘陣跡とあわせて訪れるルートが人気であり、退き口のルートを実際に辿ることで物語の臨場感をより深く味わうことができます。漫画をきっかけに戦国時代の歴史に興味を持ち、史実の豊久の人生を調べ始めるファンも少なくありません。作品の舞台となった烏頭坂には、漫画ファンが置いた手紙や花が供えられていることもあり、フィクションと史実が融合した独特の空間が形成されています。
薩摩武士としての豊久の魅力
島津豊久が現代でも高い人気を誇る理由は、薩摩武士としての誇り高い生き様にあります。叔父・義弘を守るために自ら死地に飛び込む覚悟、30歳の若さで命を賭す潔さ、そして最後まで戦い続ける不屈の精神は、戦国時代の武将像の中でも特に際立った魅力を持っています。薩摩武士は「示現流」に代表される苛烈な剣術と、「チェスト」の掛け声で突撃する勇猛さで知られていますが、豊久はまさにその薩摩武士の典型として描かれてきました。義のために命を捧げるという武士の美学を体現した豊久の物語は、フィクション・史実を問わず人々の心をつかんで離さないのです。
島津豊久碑を訪れる際の実用情報
烏頭坂へのアクセス方法
島津豊久碑がある烏頭坂へは、車でのアクセスが最も便利です。名神高速道路関ヶ原インターチェンジから国道365号線を南下し、約15分で到着できます。JR関ケ原駅からは約5キロメートルの距離があり、徒歩では1時間以上かかるため、レンタサイクルか車の利用をおすすめします。烏頭坂の近くには駐車可能なスペースがありますが、大型の駐車場は整備されていないため、路肩に停車する形になることが多いです。歩きやすい靴で訪れることをおすすめします。周辺には目立った案内標識が少ない区間もあるため、事前にスマートフォンの地図アプリで位置を確認しておくと安心です。
島津の退き口ゆかりの地めぐり
島津豊久碑を訪れる際は、島津の退き口にまつわる他の史跡もあわせて巡ることで、撤退戦の全体像をより深く理解できます。まず関ヶ原の島津義弘陣跡を訪れ、退き口の出発点を確認した後、南下して豊久碑のある烏頭坂に向かうルートがおすすめです。さらに足を延ばすと、長寿院盛淳の顕彰碑にも立ち寄ることができます。これらの史跡を退き口のルートに沿って訪れることで、義弘隊がどのように敵中突破を図り、豊久がどこで殿戦を繰り広げたかを追体験することができるでしょう。
関ケ原古戦場記念館との組み合わせ
島津豊久碑への訪問を計画する際は、関ケ原古戦場記念館の見学を組み合わせることをおすすめします。記念館では島津の退き口に関する展示も行われており、映像やジオラマを通じて退き口の経緯を視覚的に理解することができます。記念館で予備知識を得てから現地の碑を訪れると、歴史的な感動がより一層深まるでしょう。記念館のミュージアムショップには島津家にまつわるグッズも販売されており、島津ファンにとって見逃せないスポットとなっています。記念館と烏頭坂を合わせた見学の所要時間は、半日程度を目安にすると余裕を持って楽しめます。また、記念館では定期的に特別展も開催されており、島津家に関連する企画が行われることもあります。
鹿児島県との歴史的つながり
島津豊久碑を訪れた後に、さらに深く豊久の歴史を追いたい方には、宮崎県宮崎市佐土原町の佐土原城跡を訪れることをおすすめします。佐土原城は豊久が城主を務めた城であり、豊久の領国経営の拠点であった場所です。また鹿児島県には島津義弘を祀る妙円寺(現在は徳重神社)があり、毎年10月に行われる「妙円寺詣り」は島津の退き口を偲ぶ伝統行事として知られています。岐阜と鹿児島をつなぐ島津家の歴史を追いかける旅は、日本史の奥深さを感じさせる特別な体験となるでしょう。豊久が命を賭して守った義弘と島津家の絆を、ゆかりの地を巡りながら感じてみてください。
まとめ
島津豊久碑は、関ヶ原の戦いにおいて島津の退き口の英雄として壮絶な殿戦を繰り広げた島津豊久を顕彰する碑であり、岐阜県大垣市上石津町の烏頭坂に位置する歴史的な史跡です。この記事で解説した内容を振り返りましょう。
- 島津豊久碑は烏頭坂に建てられ、豊久が東軍の追撃を食い止めた殿戦の舞台として知られている
- 豊久は島津家久の子として生まれ、18歳で佐土原城主となり、朝鮮出兵でも武功を挙げた若き猛将だった
- 関ヶ原では島津の退き口において、叔父・義弘を守るために自ら殿を引き受けて壮絶な最期を遂げた
- 捨て奸という島津家伝統の殿戦術を用いて東軍を食い止め、義弘の薩摩帰還を可能にした
- 漫画「ドリフターズ」の主人公としても描かれ、現代の若い世代にも広く知られるようになった
- 豊久の犠牲により義弘が帰還できたことで、島津家は77万石の本領安堵を勝ち取り存続した
島津豊久は、義のために命を賭すという武士の理想像を体現した戦国武将でした。烏頭坂の碑の前に立ち、400年前にこの場所で義弘を守るために最期まで戦い続けた豊久の姿に思いを馳せてみてはいかがでしょうか。30歳の若さで散った猛将の忠義と勇気は、静かな山間の坂道に今も息づいています。

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