岐阜県岐阜市の金華山山頂にそびえる稲葉山城は、戦国時代の歴史を語る上で欠かすことのできない名城です。「美濃の蝮」と恐れられた斎藤道三が本拠地とし、のちに織田信長が「岐阜城」と改名して天下統一への第一歩を踏み出した場所として知られています。標高329メートルの山頂から見下ろす濃尾平野の絶景、難攻不落と称された堅固な山城の構造、そして近年の発掘調査で次々と明らかになる新事実など、稲葉山城には歴史ファンを魅了する要素が詰まっています。本記事では、稲葉山城の歴史から見どころ、アクセス方法、周辺観光スポットまで徹底的に解説します。
稲葉山城とは?岐阜城の前身となった戦国の山城
稲葉山城は、現在の岐阜城の前身となった山城で、岐阜県岐阜市の金華山(標高329メートル)の山頂に築かれていました。戦国時代を代表する名城として、多くの武将たちがこの城をめぐって激しい攻防を繰り広げたとされています。
稲葉山城の名前の由来と歴史的背景
稲葉山城の名称は、城が築かれた山の名前「稲葉山」に由来しています。この稲葉山という名称自体は、鎌倉時代にこの地を治めた稲葉氏に関係があるとされています。1201年(建仁元年)に二階堂行政がこの地に砦を築いたのが始まりとされ、その後、行政の娘婿である佐藤朝光、その子の伊賀光宗、弟の稲葉光資らが砦を守ったことから、金華山は「稲葉山」と呼ばれるようになったと伝えられています。
難攻不落と称された山城としての特徴
稲葉山城が「難攻不落」と称された理由は、その地理的条件にあります。標高329メートルの金華山は急峻な岩山で、四方を切り立った崖に囲まれています。攻め手にとっては、重い武具を身につけながら険しい山道を登らなければならず、守り手は高所から矢や石を浴びせることができたとされています。「美濃を制すものは天下を制す」という言葉が残されているように、この城を手に入れることは戦国時代において大きな意味を持っていたと考えられています。
岐阜城との違いと名称変更の経緯
稲葉山城が「岐阜城」に改名されたのは、1567年(永禄10年)のことです。織田信長が斎藤龍興から城を奪取した後、城と城下町の名前を「井口」から「岐阜」に改めました。「岐阜」という名称は、中国の古事「周の文王が岐山より起こり天下を平定した」に由来するとされ、信長の天下統一への強い意志が込められていたと言われています。この名称は、尾張国の政秀寺の僧・沢彦が提案した3つの案から信長自身が選んだとされています。
現在の岐阜城との関係性
現在、金華山の山頂に建つ岐阜城天守閣は、1956年(昭和31年)に戦後復興のシンボルとして再建されたものです。戦国時代の稲葉山城・岐阜城は1600年の関ヶ原の戦いの前哨戦で落城し、その後廃城となりました。しかし、発掘調査によって当時の石垣や遺構が次々と発見されており、往時の姿を偲ぶことができます。2011年(平成23年)には金華山一帯が「岐阜城跡」として国の史跡に指定され、歴史的価値が改めて認められています。
日本100名城に選定された意義
岐阜城は日本城郭協会が選定した「日本100名城」の第39番に認定されています。この選定は、城郭の歴史的・文化的価値を評価したもので、岐阜城が戦国時代の重要な舞台であったことを物語っています。城を訪れた際には、岐阜城資料館で100名城スタンプを押印することができ、城めぐりファンにとって人気のスポットとなっています。
稲葉山城の歴史:鎌倉時代から戦国時代までの変遷
稲葉山城の歴史は800年以上に及び、鎌倉時代の小さな砦から戦国時代の堅固な山城へと発展していきました。多くの武将たちの手を経て、その姿を変えていった稲葉山城の歴史を時代ごとに見ていきましょう。
鎌倉時代:二階堂行政による築城
稲葉山城の起源は1201年(建仁元年)に遡るとされています。鎌倉幕府の政所令を務めた二階堂行政が、この地に砦を築いたのが始まりと伝えられています。当初は小規模な山砦に過ぎませんでしたが、その後、行政の子孫や稲葉氏によって守られてきました。しかし、二階堂行藤の死後、一度は廃城となったとされています。
室町時代:美濃守護土岐氏との関わり
室町時代になると、美濃国は守護大名の土岐氏によって治められるようになりました。稲葉山は土岐氏の支配下に入り、戦略的な要衝として再び注目されるようになったと考えられています。この時代、稲葉山城は美濃国の政治において重要な位置を占めるようになっていきました。
戦国時代初期:斎藤道三以前の城主たち
戦国時代に入ると、稲葉山城は次第に整備されていきました。斎藤道三が城主となる前には、土岐氏の家臣であった長井氏などが城を管理していたとされています。この時期の城は、後の道三時代ほど大規模なものではなかったと考えられていますが、すでに山城としての基本的な構造は整っていたとされています。
斎藤道三による大改修と城下町の整備
1539年頃、斎藤道三が稲葉山城を本拠地として大改修を行ったとされています。道三は城郭の防御力を高めるとともに、麓に本格的な城下町を整備しました。近年の発掘調査では、道三時代に築かれたとみられる石垣や城門の遺構が確認されており、道三の城づくりが非常に先進的であったことが明らかになっています。
織田信秀の攻撃と道三の防衛戦
1544年(天文13年)、尾張国の織田信秀(織田信長の父)が稲葉山城を攻撃しました。織田軍は城下の村々を焼き払い、城下町の入口まで迫りましたが、日が暮れたため一旦引き上げることになりました。しかし、斎藤軍は織田軍が半分ほど引き上げた隙をついて奇襲を仕掛け、織田軍に大きな損害を与えたとされています。この戦いでは織田方に5,000人もの死者が出たと伝えられています。
斎藤道三と稲葉山城:「美濃の蝮」の居城
稲葉山城の歴史を語る上で、斎藤道三の存在は欠かすことができません。「美濃の蝮(まむし)」という異名で恐れられた道三は、一介の油売りから戦国大名にまで上り詰めた下剋上の象徴的人物として知られています。
斎藤道三の生涯と下剋上の道
斎藤道三は1494年(明応3年)頃に生まれたとされています。一介の僧侶から油売りの商人となり、さらに武士として美濃国を治める戦国大名にまで上り詰めました。この驚くべき出世は、まさに戦国時代の「下剋上」を象徴するものとして後世に語り継がれています。ただし、近年の研究では、道三の前半生の逸話は実は父・長井新左衛門尉のものであり、「国盗り」は父子二代にわたる事業だったという説が有力になっています。
「美濃の蝮」という異名の由来
道三が「美濃の蝮(まむし)」と呼ばれるようになった理由は、その冷酷さと謀略の巧みさにあるとされています。マムシは毒を持ち、母親の腹を食い破って生まれてくると信じられていた動物で、不義・不忠の象徴とされていました。主君を次々と追い落として権力を握った道三の姿が、このマムシのイメージと重なったと考えられています。ただし、この異名は昭和期に広まったもので、司馬遼太郎の小説「国盗り物語」によって全国的に知られるようになったとされています。
道三による美濃国支配の確立
道三は稲葉山城を拠点として、着実に美濃国内での勢力を拡大していきました。1552年には美濃の守護・土岐頼芸を追放し、事実上の美濃国主となりました。道三は稲葉山城を大改修して諸国に類のない巨大城郭に作り上げ、城下町も整備して経済的な基盤を固めたとされています。天嶮に恵まれ四方の国々を睥睨するこの城を手に入れた道三は、念願の「国盗り」を完成させたのです。
濃姫と織田信長の婚姻
1548年、道三は娘の帰蝶(濃姫)を尾張国の織田信長に嫁がせました。これは織田信秀との和睦の証でもありましたが、道三は信長の器量を見抜いていたとも言われています。有名な「聖徳寺の会見」では、道三は信長と初対面を果たし、その才能に感嘆したと伝えられています。この婚姻は、後に信長が美濃を支配する際の重要な布石となりました。
長良川の戦いと道三の最期
1554年、道三は家督を子の斎藤義龍に譲り、鷺山城に隠居しました。しかし、道三と義龍の関係は次第に悪化し、1556年(弘治2年)には長良川の戦いで父子が激突することになります。この戦いで道三は敗れ、義龍に討ち取られました。道三は死に際して、美濃国を信長に譲るという遺言状を残したとも伝えられており、自分に代わって信長に天下取りの夢を託したとされています。
「国盗り物語」と道三の歴史的評価
斎藤道三の生涯は、司馬遼太郎の歴史小説「国盗り物語」によって広く知られるようになりました。この小説は1963年から1966年にかけて「サンデー毎日」に連載され、NHK大河ドラマにもなりました。ただし、近年の研究では道三の「一代での国盗り」説は見直されており、父子二代にわたる事業であったとする説が有力になっています。それでも、道三が戦国時代を代表する人物であることに変わりはありません。
竹中半兵衛の稲葉山城乗っ取り事件
稲葉山城の歴史の中で、特に劇的なエピソードとして語り継がれているのが、竹中半兵衛による城の乗っ取り事件です。わずか十数名で難攻不落の城を奪取したとされるこの事件は、半兵衛の智略を示す逸話として有名です。
竹中半兵衛とはどのような人物か
竹中半兵衛(竹中重治)は、黒田官兵衛と並び称される戦国時代の大軍師として知られています。斎藤道三、義龍、龍興の三代にわたって仕え、その智略で多くの戦いを勝利に導いたとされています。後に豊臣秀吉に仕え、秀吉の天下統一に大きく貢献しましたが、36歳という若さで病没しました。
斎藤義龍から龍興への政権移譲
1561年(永禄4年)5月、斎藤義龍が病死すると、わずか14歳の龍興が後を継ぎました。若年の龍興は国内の統制に苦労し、重臣たちの間でも不満が高まっていたとされています。この混乱期に、竹中半兵衛による稲葉山城乗っ取り事件が起こることになります。
わずか16人で城を奪取した経緯
1564年(永禄7年)、竹中半兵衛は驚くべき計略で稲葉山城を乗っ取りました。半兵衛は稲葉山城に人質として差し出されていた弟の竹中重矩に病気のふりをさせ、その見舞いを口実として入城しました。そして、わずか16人の手勢で城の要所を抑え、城の攻略に成功したとされています。寝巻姿で城から逃げ出した龍興の様子は、斎藤家の凋落を象徴する出来事として語り継がれています。
城を返還した半兵衛の真意
驚くべきことに、半兵衛は約半年後、奪取した稲葉山城を龍興にあっさりと返還しました。一般的には「主君を諫めるため」の行動だったと言われていますが、近年の研究ではこの説は後世の創作である可能性が指摘されています。甲斐国恵林寺の高僧・快川の書状には、この事件に対する不快感が示されており、当時の美濃国内の諸将からも賛同が得られなかったと考えられています。
事件の歴史的意義と影響
この事件は、斎藤家の家臣団に深刻な亀裂を生じさせました。主君を城から追い出すという前代未聞の出来事は、龍興に対する信頼を大きく損ない、後に織田信長が美濃を攻略する際に多くの家臣が寝返る遠因となったとされています。また、この事件によって竹中半兵衛の名は天下に知られるようになり、後に織田信長や豊臣秀吉が半兵衛を重用するきっかけになったと言われています。
最新研究が明らかにする事件の真相
最近の研究によると、この乗っ取り事件は半兵衛の単独行動ではなく、舅の安藤守就の勢力が大きく関わっていたとされています。守就が主導してクーデターを実行し、半兵衛はその一員として参加したという見方が有力です。また、奇襲は成功したものの、龍興らの抵抗により意外に苦戦したことも明らかになっています。「天才軍師の単独行動」というイメージは、後世の脚色である可能性が高いとされています。
織田信長と稲葉山城:天下布武への出発点
稲葉山城は、織田信長の天下統一事業において極めて重要な拠点となりました。信長は約7年の歳月をかけてこの城を攻略し、「岐阜城」と改名して本格的な天下取りをスタートさせたのです。
信長による美濃攻略戦の経緯
義父・斎藤道三の死後、信長は美濃攻略を本格化させました。1561年から1567年にかけて、信長は何度も美濃に侵攻しましたが、稲葉山城の堅固さに阻まれ、なかなか攻略することができませんでした。1566年には河野島の戦いで龍興に敗れるなど、苦戦を強いられることもありました。しかし、これが斎藤氏最後の勝利となったとされています。
西美濃三人衆の寝返りと落城
1567年(永禄10年)、信長の美濃攻略が成功した背景には、「西美濃三人衆」と呼ばれた安藤守就、稲葉良通(一鉄)、氏家直元の寝返りがありました。彼らの内応により、信長は満を持して稲葉山城を攻撃しました。織田軍の進軍はあまりに早く、龍興は対処することができなかったとされています。城下は火に包まれ、完全に包囲された稲葉山城は抵抗できる状態になく、兵士たちは続々と投降しました。龍興も逃亡を余儀なくされ、信長は約7年を費やしてようやく美濃国を手中に収めたのです。
「岐阜」への改名と天下布武の朱印
稲葉山城を手に入れた信長は、城と町の名前を「井口」から「岐阜」に改めました。「信長公記」には「尾張国小真木山より濃州稲葉山へ御越しなり。井口と申すを今度改めて、岐阜と名付けさせられ」と記されています。「岐阜」の名は、古代中国で周の文王が岐山より起こり天下を平定したという故事に由来しており、信長の天下統一への強い意志が込められていました。同時に、信長は「天下布武」の朱印を使い始め、本格的な天下統一事業をスタートさせました。
信長による岐阜城の整備と城下町
信長は岐阜城を本拠地として大規模な整備を行いました。山上の城郭だけでなく、麓には豪華な居館を建設し、外国からの使節をもてなすための庭園も造られました。発掘調査では、金箔を貼った瓦を使った建物や茶室などの遺構が見つかっており、まさに「宮殿」と呼ぶにふさわしい施設だったことがわかっています。信長は岐阜城を単なる軍事拠点としてだけでなく、政治・外交の中心地としても位置づけていたのです。
織田信忠への家督譲渡
1576年(天正4年)、信長は嫡子・織田信忠を岐阜城の城主とし、織田家の家督および美濃・尾張の2ヶ国を譲りました。信長自身は安土城に移り、信忠によって岐阜城のさらなる整備改修が行われたとされています。このように、岐阜城は織田家にとって重要な拠点として機能し続けました。
関ヶ原の戦いと岐阜城の落城
1600年(慶長5年)、関ヶ原の戦いの前哨戦において、岐阜城は激戦の舞台となりました。当時の城主は織田信長の孫・秀信で、西軍に味方したため東軍の攻撃を受けました。激戦の末に岐阜城は落城し、関ヶ原合戦で勝利した徳川家康は岐阜城を廃城としました。その後、城の天守閣や櫓などは加納城に移築されたと伝えられています。
発掘調査で明らかになる稲葉山城の実像
近年、岐阜市による継続的な発掘調査によって、稲葉山城・岐阜城に関する新たな発見が相次いでいます。これまで「信長時代のもの」とされてきた遺構が実は道三時代のものであるなど、城の歴史が大きく書き換えられつつあります。
平成30年からの本格的発掘調査
岐阜城は昭和59年(1984年)に初めて発掘調査が行われ、平成23年(2011年)に国の史跡に指定されました。しかし、山上部の本格的な発掘調査が始まったのは平成30年(2018年)からです。以降、毎年調査が行われ、次々と新しい発見がなされています。これらの調査結果は、岐阜城の歴史理解を根本から変える可能性を秘めています。
信長時代の天守台石垣の発見
令和元年(2019年)から令和2年(2020年)にかけての調査で、信長期の天守台石垣が確認されました。天守台石垣は2段で構築されており、1段目と2段目は同時に築かれた可能性が高いとされています。出土した軒丸瓦は、信長の家臣団の城である坂本城(滋賀県大津市)や勝龍寺城(京都府長岡京市)で見つかっているものと文様が類似しており、天守台が信長期に築かれた可能性がさらに高まりました。
斎藤道三時代の石垣の確認
発掘調査の大きな成果の一つは、山上部の広範囲に斎藤時代(道三・義龍・龍興)の石垣が分布していることが確認されたことです。特に注目されるのは、これまで信長時代のものと考えられてきた一ノ門の巨石石垣が、実は斎藤時代の可能性が高いという発見です。これは、信長の城造りが独創的なものだけでなく、斎藤時代からの影響を受けていたことを示唆しています。
令和4年度・5年度の新発見
令和4年度の調査では、天守台南西隅と考えられる石垣が確認され、天守台西辺の長さが約14メートルであったことが判明しました。これは安土城で完成したとされる「天守」の起源を考える上でも重要な発見とされています。令和5年度には、江戸時代の絵図「稲葉城趾之図」に描かれた通路両側の石垣が確認され、山上部にも庭のような空間があった可能性が出てきました。
信長居館跡の発掘成果
山麓の信長居館跡(現在の岐阜公園)でも、重要な発掘成果が得られています。岩盤や巨石列を背景にした池や滝などの庭園、金箔を貼った瓦を飾った建物、茶室などが発見されており、まさに「宮殿」と呼ぶにふさわしい遺構であることが明らかになりました。信長の居館は単なる住居ではなく、当時の有力者を歓待した「おもてなし」の場だったと考えられています。
今後の調査と史跡整備の展望
岐阜市は今後も発掘調査を継続し、岐阜城の知られざる価値を明らかにしていく方針です。2021年12月には、金華山の山上部の樹木を伐採して戦国時代の姿に復元する計画が発表されました。石垣も城下から見られるよう当時の姿に戻す取り組みが進められており、数年後には稲葉山城・岐阜城の往時の姿により近い景観を楽しめるようになる可能性があります。
稲葉山城(岐阜城)へのアクセスと基本情報
稲葉山城の跡地に建つ岐阜城天守閣を訪れるには、金華山の麓から山頂へ向かう必要があります。ロープウェーを利用する方法と登山道を歩く方法があり、それぞれの楽しみ方があります。
JR岐阜駅・名鉄岐阜駅からのアクセス
岐阜城へはJR岐阜駅または名鉄岐阜駅からバスでアクセスするのが便利です。「N系統」(長良橋方面)または「市内ループ線左回り」のバスに乗車し、約15分で「岐阜公園・岐阜城」バス停に到着します。バス停からは徒歩約3分でロープウェー乗り場に着きます。2025年4月から2026年3月までは、バスで来園すると岐阜城など周辺施設の割引クーポンがもらえるキャンペーンも実施されています。
車でのアクセスと駐車場情報
車で訪れる場合は、東海北陸自動車道「岐阜各務原IC」または東海環状自動車道「岐阜IC」から岐阜公園を目指します。なお、岐阜城へは車で直接行くことはできません。金華山の麓にある岐阜公園の駐車場(有料)に駐車し、そこからロープウェーまたは登山道を利用することになります。
金華山ロープウェーの利用方法と料金
金華山ロープウェーは、岐阜公園と金華山山頂を約3〜4分で結んでいます。15分間隔(毎時0分、15分、30分、45分)で運行されており、原生林に覆われた金華山と美しい長良川を眼下に眺めながら山頂を目指すことができます。山頂駅からは岐阜城天守閣まで石段や坂のある山道を約8分歩きます。
金華山ロープウェー料金表
| 区分 | 片道 | 往復 |
|---|---|---|
| 大人(12歳・中学生以上) | 800円 | 1,300円 |
| 小人(4歳以上12歳未満) | 400円 | 650円 |
※30名以上の団体は割引あり
岐阜城天守閣の営業時間と入場料
岐阜城天守閣の通常営業時間は、3月16日から10月16日までが午前9時30分から午後5時30分、10月17日から3月15日までが午前9時30分から午後4時30分です。入場は閉館の15分前までとなっています。また、元旦のみ特別に6時30分から開館し、初日の出を楽しむことができます。
岐阜城天守閣入場料(資料館との共通券)
| 区分 | 料金 |
|---|---|
| 大人(16歳以上) | 200円 |
| 小人(4歳以上16歳未満) | 100円 |
| 団体(30人以上) | 2割引 |
※岐阜市内の中学生以下は無料
100名城スタンプと御城印の入手方法
岐阜城の日本100名城スタンプは、岐阜城資料館の入口に設置されています。資料館への入場には岐阜城入場券が必要ですので、先に天守閣でチケットを購入してください。御城印は金華山ロープウェイ売店で購入でき、ロープウェイに乗らなくても購入可能です。通常版のほか、プレミアムフライデー限定の「金の御城印」や切り絵御城印など、様々なバリエーションが用意されています。
耐震改修工事に関する注意事項
重要なお知らせ:耐震改修工事について
岐阜城天守閣は、令和8年(2026年)5月19日から令和9年(2027年)10月下旬(予定)まで、耐震改修工事のため休業予定です。また、令和7年(2025年)11月25日から令和9年(2027年)9月末(予定)まで、金華山山頂部の天守閣前が通行止めとなります。訪問を計画される際は、最新情報をご確認ください。
金華山の登山コースで楽しむ稲葉山城跡
金華山には10本の登山道が整備されており、ロープウェーを使わずに徒歩で山頂を目指すこともできます。戦国武将たちも歩いたかもしれない山道を登りながら、稲葉山城の堅固さを体感してみてはいかがでしょうか。
初心者向け:七曲り登山道
七曲り登山道は、戦国時代の「大手道」とも呼ばれ、4つの主要登山道の中で最も距離が長い代わりに傾斜が緩やかな初心者向けコースです。距離は約1,500メートル、所要時間は約60分です。岐阜公園の南側・金華山ドライブウェー入口から登り始め、よく整備された道を歩きます。家族連れにもおすすめで、登山に慣れていない方や体力に自信のない方でも比較的安心して登ることができます。
中級者向け:めい想の小径(水手道)
めい想の小径は、距離約2,300メートル、所要時間約60分の中級者向けコースです。「水ノ手道」とも呼ばれ、いくつかの沢を横切りながら森の中を進みます。このコースの特徴は、登山道の各所に偉人たちの名言が書かれた看板が設置されていることです。シラー、パスカル、魯迅などの言葉を読みながら、心静かに登山を楽しむことができます。中盤には長良川と岐阜市内を一望できるビューポイントもあります。
上級者向け:馬の背登山道
馬の背登山道は、金華山で最も難易度の高いコースです。距離約1,000メートル、所要時間約40分と最短ですが、その分険しい道が続きます。「危険なので老人や幼児は無理です」という看板が立てられているほどで、両手をつきながら四つん這いで登らなければならない箇所もあります。しかし、尾根を登るため、途中で見える岐阜市街地や伊吹山方面の景色は最高です。
金華山登山コース比較表
| コース名 | 難易度 | 距離 | 所要時間 |
|---|---|---|---|
| 七曲り登山道 | 初心者向け | 約1,500m | 約60分 |
| めい想の小径 | 中級 | 約2,300m | 約60分 |
| 馬の背登山道 | 上級者向け | 約1,000m | 約40分 |
登山時の服装と持ち物
金華山の登山には、歩きやすいスニーカーや登山靴の着用をおすすめします。特に馬の背登山道などの上級コースでは、しっかりとしたグリップのある靴が必要です。また、季節を問わず水分補給用の飲み物を持参し、夏場は帽子や日焼け止め、冬場は防寒着をお忘れなく。急な天候の変化に備えて、雨具を持っていくと安心です。
おすすめの登山プラン
初めて金華山を訪れる方には、行きはロープウェー、帰りは登山道を利用するプランがおすすめです。まず山頂で岐阜城や絶景を楽しんでから、七曲り登山道などを使って下山すれば、体力的な負担も少なく、登山の楽しさも味わえます。時間と体力に余裕があれば、登りも徒歩で挑戦してみてください。戦国武将たちが攻め登った山の険しさを実感できるはずです。
現在の通行止め情報
岐阜城の改修工事に伴い、一部の登山道で通行制限が実施されています。令和7年(2025年)11月25日から令和9年(2027年)9月末(予定)まで、「めい想の小径(水手道)」と「鼻高ハイキングコース」は山頂手前で通行止めとなります。登山を計画される際は、事前に岐阜市公式ホームページで最新の通行情報をご確認ください。
稲葉山城(岐阜城)周辺の観光スポット
稲葉山城(岐阜城)を訪れたら、周辺の観光スポットもぜひ楽しんでいただきたいところです。岐阜公園、川原町、長良川など、歴史・自然・グルメを満喫できるエリアが広がっています。
岐阜公園と信長居館跡
金華山の麓に広がる岐阜公園は、織田信長の居館跡を含む歴史的な公園です。春には約400本の桜が咲き誇り、秋には紅葉が美しく色づきます。園内には発掘調査案内所があり、最新の発掘成果を知ることができます。CG映像の上映や現地体験タブレットの貸し出しも行われており、往時の岐阜城の姿を疑似体験できます。
川原町の古いまちなみ
長良橋南詰から西へ続く「湊町・玉井町・元浜町」は通称「川原町」と呼ばれ、格子戸のある古いまちなみが今も残っています。かつては長良川の水運を利用した川港として栄えた場所で、現在も伝統工芸品「岐阜うちわ」を製造販売するお店や、岐阜銘菓「鮎菓子」で知られる老舗和菓子店が営業しています。レトロな雰囲気の中で散策やカフェ巡りを楽しむことができます。
長良川と鵜飼観覧
岐阜市を流れる長良川では、毎年5月11日から10月15日まで「長良川の鵜飼」が開催されています。1300年以上の歴史を持つ伝統漁法で、篝火を焚いた鵜舟から鵜匠が鵜を操る様子は幻想的です。鵜飼のオフシーズンでも、「長良川うかいミュージアム」で鵜飼の歴史や文化を学ぶことができます。
岐阜城パノラマ夜景
岐阜城からの夜景は「日本夜景遺産」に認定されており、2025年には「日本三大山城夜景」のひとつにも選ばれました。期間限定で開館時間を延長する「岐阜城パノラマ夜景」イベントでは、天守閣から360度のパノラマ夜景を楽しむことができます。眼下に広がる岐阜市街地のきらめき、遠方に見える名古屋市の輝き、そして夏場には長良川の鵜飼の篝火も加わり、まさに「宝石箱をひっくり返したような」絶景が広がります。
岐阜大仏
「日本三大仏」の一つとして数えられる岐阜大仏は、乾漆仏として日本一の大きさを誇ります。大イチョウの木を中心の柱として1832年に完成したもので、その圧倒的な存在感は訪れる人々を驚かせます。岐阜城からも比較的近い場所にあり、合わせて訪問するのがおすすめです。
金華山リス村
金華山ロープウェー山頂駅の近くには「金華山リス村」があり、可愛らしいリスたちと触れ合うことができます。岐阜城見学と合わせて立ち寄れば、歴史散策の合間に癒しのひとときを過ごせます。特に家族連れに人気のスポットとなっています。
豆知識:稲葉山城と岐阜城の名前の使い分け
歴史的には、1567年に織田信長が城を攻略して「岐阜」と改名するまでは「稲葉山城」、それ以降は「岐阜城」と呼ばれています。ただし、現在では両方の名称が観光案内などで使われることがあり、「稲葉山城」という呼び方は特に斎藤道三の時代を強調する際に用いられる傾向があるとされています。
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