「小倉山城跡ってどんな場所なの?」と気になっている方も多いのではないでしょうか。小倉山城跡は、岐阜県美濃市にある戦国武将・**金森長近**が築いた隠居城の跡地です。飛騨高山の街づくりで知られる金森長近が晩年に移り住み、「うだつの上がる町並み」の基礎を築いた場所でもあります。現在は**小倉公園**として整備され、石垣や土塁などの城郭遺構が残るとともに、春には約1,000本の桜が咲き誇る花見の名所としても親しまれています。この記事では、小倉山城跡の歴史や見どころ、金森長近の業績、うだつの町並みとの関わりまで詳しく解説していきます。
- 金森長近が慶長10年(1605年)に築いた隠居城の跡地
- 飛騨高山の街づくりの名将が最晩年に築いた最後の城
- 現在は小倉公園として桜の名所・展望スポットに
- 「うだつの上がる町並み」の原点となった城下町の歴史
小倉山城跡とは?金森長近が築いた隠居城
岐阜県美濃市にある平山城の跡地
小倉山城(おぐらやまじょう)は、岐阜県美濃市泉町にあった**平山城**です。標高約159メートルの小倉山の山腹から山麓にかけて築かれた城で、美濃市指定史跡に指定されています。長良川の左岸に位置し、川を天然の要害として活用した立地が特徴です。現在は城跡一帯が「小倉公園」として整備されており、市民の憩いの場として親しまれています。城跡には石垣や土塁といった城郭遺構が残されており、本丸には模擬櫓が建てられ、山頂には三階建ての展望台が設置されています。展望台からは長良川の流れやうだつの上がる町並み、さらには周囲の山々を一望することができ、美濃市の眺望スポットとしても人気があります。
金森長近の隠居城として築城された背景
小倉山城は、**慶長10年(1605年)**に飛騨高山藩主であった**金森長近**(かなもりながちか)が隠居城として築いた城です。当時80歳を超えていた金森長近は、飛騨一国と高山城の采配を養嗣子の金森可重に任せ、自身は徳川家康から加増された美濃国上有知(こうずち、現在の美濃市)に移りました。最初は鉈尾山城(なたおやまじょう)に入りましたが、山城であったため不便を感じ、長良川畔の小倉山に新たな城を築いたのです。隠居を目的とした城であったため、通常の山城のように山頂に本丸を置くのではなく、山腹の比較的低い位置に本丸と二の丸を配し、山麓に三の丸を設けるという特徴的な構造になっています。実戦よりも居住性を重視した城づくりは、長近の晩年の穏やかな暮らしへの志向を反映しています。
わずか6年で廃城となった短命の城
小倉山城は築城からわずか**6年**で廃城となった短命の城でした。金森長近は慶長13年(1608年)に85歳で亡くなり、その後、長近の実子である金森長光が上有知藩2万石を相続して小倉山城の城主となりました。しかし慶長16年(1611年)、金森長光は跡継ぎのないまま病没してしまいます。嗣子がいなかったことから上有知藩は**改易・廃藩**となり、小倉山城も廃城となりました。築城から廃城までわずか6年という極めて短い歴史を持つ城ですが、この短期間の間に金森長近が整備した城下町は、その後も商業の中心地として発展を続け、現在の「うだつの上がる町並み」として残されています。城は短命でしたが、町は長近の構想どおりに繁栄したのです。
小倉山城の廃城後、天明2年(1782年)には城跡に上有知代官所が置かれました。江戸時代を通じてこの地は行政の拠点としての機能を持ち続けており、金森長近が選んだ立地の優位性が証明されたとも言えます。
隠居城ならではの特徴的な縄張り
小倉山城の縄張り(城の設計)は、隠居城ならではの特徴を持っています。通常の山城では敵の攻撃を防ぐために山の最も高い場所に本丸を置きますが、小倉山城では山腹の比較的低い位置に本丸と二の丸が配置されています。これは戦闘を想定した城ではなく、城主の居住性と利便性を優先した設計であることを示しています。山麓には三の丸が設けられ、城下町との行き来がしやすい構造となっていました。とはいえ、石垣や土塁はしっかりと築かれており、城としての体裁は十分に整えられていたのです。長良川を天然の堀として活用し、対岸からの眺望も美しい立地は、長近が最晩年に求めた風雅な暮らしにふさわしいものだったと考えられます。
金森長近とはどんな人物だったのか
三英傑に仕えた戦国の名将
金森長近は、織田信長・豊臣秀吉・徳川家康という**戦国の三英傑**すべてに仕えた数少ない武将のひとりです。天文元年(1532年)に美濃国で生まれた長近は、若くして織田信長に仕え、美濃攻略や越前朝倉氏攻めなどの合戦で武功を挙げました。本能寺の変後は豊臣秀吉に従い、**天正13年(1585年)**に飛騨国を平定して飛騨高山藩の初代藩主となります。関ヶ原の戦いでは東軍(徳川方)に付いて戦功を上げ、戦後に美濃国上有知2万石を加増されました。その後、80歳を超えてなお美濃に新たな城と町を築くという精力的な活動を続けた長近は、慶長13年(1608年)に85歳で生涯を閉じました。文武両道の人物として知られ、茶の湯にも造詣が深かったとされています。
飛騨高山の街づくりを手がけた名君
金森長近の最大の功績のひとつが、**飛騨高山の街づくり**です。天正16年(1588年)から高山城の築城と城下町の整備を始めた長近は、碁盤の目のように整然とした町割りを計画し、商人を城下に集めて商業を振興しました。現在、観光地として世界的に名高い飛騨高山の古い町並みは、金森長近が築いた城下町が原型となっています。長近は単に軍事的な拠点としての城を築くだけでなく、人々が暮らしやすく商売が繁盛する町をデザインする「町づくり」の才能に長けていた人物だったのです。飛騨の豊かな森林資源を活かした木工産業の育成や、寺社の整備にも力を注ぎ、文化的にも豊かな城下町を築き上げました。高山祭の原型もこの時代に形づくられたとされています。
📜 歴史メモ
金森長近は天文元年(1532年)に美濃国で生まれ、慶長13年(1608年)に85歳で没しました。戦国時代から江戸時代初期まで、約76年にわたる武将人生の中で三英傑に仕え、飛騨高山と上有知(美濃市)という二つの城下町を築いた町づくりの名手として知られています。
上有知での最後の町づくり
金森長近が最晩年に取り組んだのが、上有知(こうずち、現在の美濃市)での**最後の町づくり**でした。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いの功績で上有知2万石を加増された長近は、この地に小倉山城を築くとともに、城下町の整備に着手しました。慶長11年(1606年)頃には現在も残る町割りが完成し、商人町や職人町が計画的に配置されました。長近は飛騨高山で培った町づくりのノウハウを上有知にも活かし、短期間で機能的な城下町を完成させたのです。さらに、長良川畔に「上有知湊」を開き、水運による物資の流通を可能にしました。この湊の存在が上有知を商業の中心地として発展させる大きな原動力となりました。80歳を超えてなお新たな町を築くという長近の情熱は、その生涯を通じた「町づくり」への強い信念を物語っています。
美濃和紙の産業振興に貢献
金森長近は上有知において、**美濃和紙**の産業振興にも大きく貢献しました。美濃地方は古くから和紙の生産地として知られており、その歴史は奈良時代にまで遡るとされていますが、長近はこの伝統産業をさらに発展させる政策を展開しました。それまで大矢田で開かれていた紙市を上有知に移し、紙の取引の中心地を上有知と定めたのです。原料の楮(こうぞ)の取引も紙市で行わせ、月に6回定期的に開かれる「六斎市」として制度化しました。この政策により上有知は美濃和紙の一大集散地となり、和紙取引によって町は大いに潤いました。美濃和紙は現在もユネスコ無形文化遺産に登録されている伝統工芸であり、長近が育んだ和紙産業の礎は400年以上の時を経て今に受け継がれています。
小倉山城跡に残る城郭遺構
石垣と土塁の現存状況
小倉山城跡には、築城当時の**石垣**と**土塁**が現存しており、城の歴史を今に伝えています。本丸周辺の石垣は自然石を積み上げた野面積み(のづらづみ)の技法で築かれており、戦国時代末期から江戸時代初期にかけての石垣技術を観察することができます。土塁は曲輪(くるわ)の周囲に築かれた土の防御壁であり、城の平面構造を理解する手がかりとなっています。廃城から400年以上が経過した現在も、これらの遺構が比較的良好な状態で残されていることは貴重です。城跡を歩きながら石垣の配置や土塁の高さを観察すると、小倉山城がどのような構造の城であったかをイメージすることができるでしょう。
本丸跡の模擬櫓と展望台
小倉山城跡の本丸跡には**模擬櫓**(もぎやぐら)が建てられており、かつて城があった時代の雰囲気を彷彿とさせる景観を作り出しています。この模擬櫓は歴史的な考証に基づいて当時の姿を忠実に再現したものではなく、公園のシンボルとして建設されたものですが、城跡の景観に華を添える存在となっています。また、小倉山の山頂には**三階建ての展望台**が設けられており、ここからの眺望は小倉山城跡を訪れる際のハイライトのひとつです。展望台からは長良川の美しい流れと対岸の山々、眼下に広がるうだつの上がる町並みの甍(いらか)の連なりを見渡すことができます。金森長近もこの山から同じ景色を眺めたのかと想像すると、歴史のロマンを感じることでしょう。
山腹に築かれた曲輪の構造
小倉山城の縄張りは、山腹に本丸と二の丸、山麓に三の丸を配した構造です。本丸は山の中腹に位置し、周囲を石垣と土塁で囲まれていました。二の丸は本丸の下方に設けられ、城の防御の第二線として機能しています。三の丸は山麓に広がり、城下町との接点となる場所でした。隠居城という性格上、山頂まで急な坂を登る必要がない設計は、高齢の城主にとって実用的な配慮であったと考えられます。各曲輪をつなぐ通路や虎口(こぐち:城の出入口)の配置を観察すると、隠居城でありながらも最低限の防御機能は確保されていたことが分かります。現在の小倉公園の散策路は、これらの曲輪を巡るように設計されているため、歩きながら城の構造を体感することができます。
上有知代官所跡としての歴史
小倉山城が廃城となった後、この地は幕府の直轄地(天領)となりました。**天明2年(1782年)**には城跡に**上有知代官所**が設置され、幕末まで美濃地方の行政拠点として機能しました。代官所が城跡に置かれたことは、この場所が地域の中心として適した立地であったことを証明しています。長良川の水運を利用できる利便性、周囲を見渡せる高台の立地、そして城下町として整備された市街地との近さが、行政拠点としても理想的だったのでしょう。城は廃されても、金森長近が選んだこの場所は江戸時代を通じてその価値を発揮し続けたのです。
小倉公園として楽しむ城跡の魅力
桜の名所としての小倉公園
小倉山城跡を含む小倉公園は、春になると約**1,000本**もの桜が咲き誇る美濃市を代表する**桜の名所**として知られています。ソメイヨシノを中心とした桜の木が公園全体に植えられており、3月下旬から4月上旬にかけて見頃を迎えます。桜のシーズンには「桜まつり」が開催され、仮設の茶店が出店するなど、多くの花見客でにぎわいます。夜にはライトアップも行われ、闇に浮かび上がる夜桜と模擬櫓のシルエットが幻想的な風景を作り出します。城跡の石垣と桜の組み合わせは日本の春を象徴する風景であり、歴史と自然の美しさを同時に楽しめる贅沢なスポットです。高台から見下ろす桜並木と長良川の景色は、美濃市ならではの花見体験を提供してくれるでしょう。
小動物園と遊具広場
小倉公園には小さな**動物園**が併設されており、ファミリーでの訪問にも適したスポットとなっています。園内ではアヒルやニワトリなどの鳥類、ニホンザル、クジャクなどの動物が飼育されており、子どもたちが間近で動物を観察できる環境が整っています。規模は大きくありませんが、無料で見学できる気軽さが好評です。また、公園内には遊具が設置された広場や芝生の広場もあり、子どもたちが体を動かして遊ぶことができます。歴史的な城跡の散策と動物園見学、さらに遊具での遊びを一度に楽しめるのが小倉公園の魅力です。大人は城跡の歴史に思いを馳せ、子どもは動物や遊具で楽しむという、世代を問わず満足できる場所となっています。
展望台から一望する美濃市の絶景
小倉山の山頂に設けられた三階建ての展望台は、美濃市随一の展望スポットです。展望台に登ると、眼下には長良川が悠々と流れ、その手前にはうだつの上がる町並みの瓦屋根が整然と連なる景色が広がります。金森長近が400年前に築いた城下町の町割りが、現在もそのまま残されていることを上から眺めて実感できる貴重なビューポイントです。反対側に目を向けると、美濃市を取り囲む山々の稜線が連なり、美濃地方特有の山と川に恵まれた地形を一望することができます。展望台までは散策路を歩いて10分ほどで到達でき、適度な運動にもなります。四季折々の景色を楽しめますが、特に桜の季節と紅葉の季節は格別の美しさです。
散策コースとしての楽しみ方
小倉公園は、城跡の散策コースとしても手軽に楽しめるスポットです。公園の入口から本丸跡、二の丸跡を巡り、山頂の展望台まで歩くコースは片道20分程度であり、お年寄りや小さなお子さん連れでも無理なく歩ける距離です。散策路沿いには石垣や土塁の遺構が点在しており、案内板も設置されているため、城の歴史について学びながら歩くことができます。小倉公園からうだつの上がる町並みまでは徒歩圏内であるため、城跡の散策と町並み歩きを組み合わせたコースがおすすめです。城を築いた金森長近の目線で町を見下ろし、その後に実際に町を歩いてみるという体験は、歴史の深みをより実感できる楽しみ方です。
うだつの上がる町並みと小倉山城の関係
金森長近が築いた城下町の原型
美濃市を代表する観光スポットである「うだつの上がる町並み」は、金森長近が小倉山城の城下町として整備した町割りがそのまま受け継がれたものです。慶長11年(1606年)頃に完成したとされる町割りは、商人町を中心とした計画的な都市設計であり、通りに面して商家が軒を連ねる構造になっていました。金森長近は飛騨高山の城下町づくりで培ったノウハウをこの地にも活かし、商業と物流に適した機能的な町を短期間で完成させたのです。城は廃城となりましたが町は発展を続け、美濃和紙の取引で富を蓄えた商人たちは、自らの財力を示す「うだつ」を屋根に掲げるようになりました。町並みは現在、国の**重要伝統的建造物群保存地区**に選定されています。
「うだつ」とは何か
「うだつ」とは、隣家との境に屋根の両端を少し高くして設けた**防火壁**のことです。本来は火災の延焼を防ぐための実用的な建築構造でしたが、次第に装飾性が加わり、立派なうだつを掲げることは商家の財力と格式の象徴となっていきました。「うだつが上がらない」という慣用句は、出世できない・生活が向上しないという意味で使われますが、その語源はこのうだつに由来しています。裕福な商家でなければ立派なうだつを掲げることができなかったことから、この表現が生まれたとされているのです。美濃市のうだつの上がる町並みには、江戸時代から明治時代にかけて建てられた商家の建物が軒を連ね、多くの建物に見事なうだつが残されています。
上有知湊と水運による発展
金森長近が上有知の発展のために整備した重要な施設のひとつが、長良川畔の**「上有知湊」**(こうずちみなと)です。長良川の水運を利用して美濃和紙や物資を下流の岐阜、名古屋方面に運ぶための河港として開設されました。上有知湊には灯台が設けられ、夜間の船の往来の目印となりました。この灯台は現在も**「川湊灯台」**として残されており、美濃市のシンボル的な存在となっています。水運の整備により上有知は美濃和紙の集散地としての機能を高め、各地から商人が集まる活気ある商業都市へと成長していきました。長近の先見性は、城だけでなく港の整備にまで及んでおり、総合的な町づくりの視点を持った人物であったことが伺えます。
城下町から和紙の町への発展
金森長近が築いた上有知の城下町は、城が廃された後も美濃和紙の取引を中心に発展を続けました。長近が紙市を大矢田から上有知に移し、月6回の六斎市を制度化したことが、この町を和紙取引の中心地として確立させました。美濃和紙は品質の高さで全国的に知られるようになり、和紙取引で富を築いた商人たちが町の発展を支えました。彼らが競って立派なうだつを掲げたことが、現在の「うだつの上がる町並み」の景観を生み出したのです。つまり、小倉山城跡とうだつの上がる町並みは、金森長近という一人の人物の町づくりの構想から生まれた表裏一体の存在であると言えます。城跡から町並みを見下ろすと、長近の壮大な都市計画の全体像を感じ取ることができるでしょう。
美濃市の歴史遺産としての価値
美濃市指定史跡としての保護
小倉山城跡は**美濃市指定史跡**として保護されており、城郭遺構の保全が行われています。石垣や土塁といった歴史的な遺構を後世に伝えるため、定期的な点検や修復が実施されており、歴史的価値の維持に努めているのです。公園として整備されたことで市民が日常的に城跡に触れることができる環境が生まれ、歴史教育の場としても活用されています。美濃市では小倉山城跡とうだつの上がる町並みを一体的な歴史遺産として位置づけ、金森長近の町づくりの全体像を伝える取り組みを進めています。城跡単体ではなく、城下町との関連性の中で歴史的価値を理解することが、小倉山城跡をより深く味わうポイントです。
国の重要伝統的建造物群保存地区
小倉山城跡と一体の歴史を持つうだつの上がる町並みは、**国の重要伝統的建造物群保存地区**(重伝建地区)に選定されています。この選定は、江戸時代の町割りがそのまま残り、多数のうだつを持つ商家建築が良好な状態で保存されていることが評価されたものです。重伝建地区の選定により、建物の外観を大きく変更する際には許可が必要となり、歴史的な町並みの景観が法的にも守られる仕組みが整いました。個々の建物だけでなく、通りの幅や建物の配置、うだつの連なりといった町並み全体の雰囲気が保存の対象となっています。金森長近が400年前に設計した町割りが国の制度によって守られているという事実は、長近の都市計画がいかに優れたものであったかを物語っています。
美濃和紙のユネスコ無形文化遺産登録
美濃市の歴史遺産を語る上で欠かせないのが、**美濃和紙**の**ユネスコ無形文化遺産**登録です。2014年に「和紙:日本の手漉和紙技術」として、美濃和紙(本美濃紙)は石州半紙、細川紙とともにユネスコ無形文化遺産に登録されました。美濃和紙の歴史は1,300年以上と言われ、奈良時代の正倉院文書にも美濃の紙に関する記録が残されています。金森長近が上有知に紙市を移し、和紙産業を振興したことは、この伝統の継承と発展に大きく寄与しました。現在も美濃市では伝統的な手漉き和紙の技術が受け継がれており、美濃和紙の里会館では和紙の歴史や製造工程を学ぶことができます。小倉山城跡と美濃和紙は、金森長近という人物を通じて深く結びついた美濃市の誇りなのです。
川湊灯台と長良川の水運遺産
金森長近が開いた上有知湊に建てられた**川湊灯台**は、現在も美濃市のシンボルとして長良川畔に立っています。この灯台は内陸部に残る川の灯台として珍しく、かつての長良川の水運の盛んさを今に伝える貴重な遺産です。高さ約9メートルの木造灯台は、夜間に灯りを灯して船の航行を助ける役割を果たしていました。上有知湊は美濃和紙の出荷拠点として江戸時代を通じて重要な機能を持ち、この湊を通じて美濃和紙は全国各地に流通しました。現在は美濃橋(日本最古の近代吊り橋のひとつ)とともに長良川畔の景観を構成する要素として保存されています。小倉山城跡から上有知湊まで歩いて巡ると、金森長近の町づくりの全体像を体感できます。
小倉山城跡へのアクセスと見学情報
車でのアクセス方法
小倉山城跡(小倉公園)への車でのアクセスは、**東海北陸自動車道の美濃インターチェンジ**から約5分と大変便利です。美濃インターチェンジを下りて国道156号線を美濃市街方面に進むと、間もなく小倉公園に到着します。公園には無料の駐車場が整備されているため、車での訪問が最もスムーズです。名古屋方面からは東名高速道路を経由して東海北陸自動車道に入り、美濃インターチェンジで下りるルートが一般的です。桜の季節には来場者が増えるため、駐車場が混雑する場合もあります。うだつの上がる町並み周辺にも駐車場があるため、状況に応じて利用するとよいでしょう。
公共交通機関でのアクセス
公共交通機関を利用する場合は、**長良川鉄道の「美濃市駅」**が最寄り駅となります。美濃市駅から小倉公園までは徒歩約10分の距離であり、駅から歩いてアクセスすることが可能です。長良川鉄道はJR岐阜駅から接続しており、岐阜駅から美濃太田駅を経由して美濃市駅に向かうことができます。また、美濃市駅からうだつの上がる町並みまでも徒歩圏内であるため、公共交通機関を利用しても城跡と町並みの両方を効率的に巡ることが可能です。長良川鉄道は長良川沿いを走るローカル線として風光明媚な車窓が楽しめることでも知られており、鉄道旅と城跡巡りを組み合わせた旅もおすすめです。
おすすめの見学ルートと所要時間
小倉山城跡と周辺の見どころを効率的に巡るおすすめのルートをご紹介します。まず小倉公園の入口から城跡の散策を開始し、石垣や土塁を見学しながら本丸跡、模擬櫓を巡ります。その後、山頂の展望台まで登り、長良川とうだつの町並みの絶景を楽しみましょう。展望台からの景色を堪能した後は下山し、徒歩でうだつの上がる町並みへ移動します。町並みを散策した後は上有知湊と川湊灯台を見学し、美濃和紙の里会館に立ち寄るという流れが理想的です。小倉公園の散策に約1時間、うだつの町並み散策に約1時間、その他の見学に30分程度で、合計2時間半から3時間程度の所要時間を見込んでおくとよいでしょう。
周辺のグルメと美濃市の特産品
小倉山城跡を訪れた際には、美濃市ならではのグルメや特産品も楽しみたいところです。うだつの上がる町並みにはカフェや食事処が点在しており、散策の合間に地元の味を楽しむことができます。美濃市は長良川の清流に育まれた鮎の産地としても知られており、夏場には鮎料理を提供する店舗もあります。特産品としてはやはり美濃和紙を使った製品が人気であり、和紙を用いた文具や小物はお土産としても喜ばれるでしょう。美濃和紙の里会館では和紙漉き体験もでき、自分だけの和紙を作るという特別な体験が可能です。城跡の歴史散策と美濃市のグルメ・体験を組み合わせることで、充実した一日を過ごすことができます。
まとめ
小倉山城跡は、飛騨高山の街づくりで知られる金森長近が最晩年に築いた隠居城の跡地であり、「うだつの上がる町並み」の原点となった歴史的に重要なスポットです。現在は小倉公園として整備され、桜の名所や展望スポットとしても親しまれています。この記事の内容を振り返りましょう。
- 小倉山城は慶長10年(1605年)に金森長近が隠居城として築いた平山城である
- 金森長近は織田信長・豊臣秀吉・徳川家康の三英傑に仕え、飛騨高山と上有知の城下町を築いた
- 城は築城からわずか6年で廃城となったが、城下町は「うだつの上がる町並み」として現在も残る
- 石垣や土塁の遺構が残り、本丸には模擬櫓、山頂には展望台が設けられている
- 春には約1,000本の桜が咲き、美濃市を代表する花見スポットとなっている
- 金森長近は美濃和紙の産業振興と上有知湊の整備にも貢献した
小倉山城跡は、城そのものの歴史は短くとも、金森長近の町づくりの集大成として深い意味を持つ場所です。展望台から見下ろすうだつの町並みは、400年前の長近の構想が今に生きていることを教えてくれます。美濃市を訪れた際にはぜひ小倉山城跡に足を運び、戦国の名将が最後に描いた町のかたちを自分の目で確かめてみてはいかがでしょうか。

コメント