犬山城は、愛知県犬山市にそびえる国宝の城であり、現存する日本最古の様式を持つ天守として知られています。その歴史は織田信長の叔父・織田信康による築城にまで遡り、以来400年以上にわたって数多くの城主がこの城を守り継いできました。犬山城城主の歴史を紐解くことで、戦国時代から江戸時代、そして現代に至るまでの日本の歴史の流れを垣間見ることができます。本記事では、犬山城の歴代城主とその歴史的背景について詳しく解説していきます。
犬山城城主の歴史を紐解く|築城から現代まで約500年の軌跡

愛知県犬山市にそびえる国宝・犬山城は、木曽川沿いの丘陵に位置する名城として知られています。天文6年(1537年)に織田信康によって築城されて以来、約500年にわたり多くの城主がこの城を治めてきました。戦国時代の動乱から江戸時代の安定期、そして明治維新を経て現代に至るまで、犬山城は日本の歴史の縮図ともいえる存在です。
犬山城の城主は、築城から平成16年(2004年)までの間に27名を数えるとされています。特に江戸時代には成瀬家が9代にわたって城主を務め、明治時代以降も個人所有という稀有な形態で城を守り続けました。このような歴史は、日本の城郭史においても非常に珍しい事例として注目されています。
本記事では、犬山城の歴代城主について時代順に詳しく解説していきます。築城者である織田信康から、戦国時代の激動を生き抜いた武将たち、そして江戸時代を通じて城を守った成瀬家の人々まで、犬山城を彩った城主たちの物語をご紹介します。
犬山城とは|国宝五城に数えられる名城の概要
犬山城は、尾張国と美濃国の境界に位置する平山城です。木曽川の南岸、標高約88メートルの丘陵上に築かれており、その立地から「後堅固の城」とも呼ばれています。天守は現存12天守の一つであり、昭和10年(1935年)に国宝に指定されました。現在は姫路城、松本城、彦根城、松江城と並ぶ国宝五城の一つとして、多くの観光客を集めています。
「白帝城」という別名の由来
犬山城には「白帝城(はくていじょう)」という美しい別名があります。この名は、江戸時代の儒学者・荻生徂徠(おぎゅうそらい)が命名したとされています。木曽川沿いの丘上にそびえる犬山城の姿が、中国・長江沿いの白帝城を詠んだ李白の詩「早発白帝城」を彷彿とさせることから、この名が付けられたと伝えられています。
戦略的要衝としての犬山城
犬山城は、中山道と木曽街道に通じる交通の要衝に位置していました。また、木曽川による物流の拠点でもあり、政治・経済・軍事のすべてにおいて重要な役割を果たしていたとされています。このため、戦国時代を通じて多くの武将がこの城の支配権を争いました。
現存天守最古の城としての価値
令和3年(2021年)に行われた年輪年代法による調査の結果、犬山城天守は天正13年(1585年)から天正18年(1590年)にかけて建造されたことが判明しました。これにより、現存天守の中で最古であることが科学的に証明されたとされています。初期望楼型という最も古い様式を残す貴重な建築物として、日本の城郭建築史において極めて高い価値を持っています。
豆知識:犬山城の天守構造
犬山城天守は、地上三層四階、地下二階の構造を持ちます。入母屋造り二階建ての建物の上に望楼を乗せた「望楼型天守」と呼ばれる形式で、高さは約24メートル(うち石垣5メートル)です。外壁は初重が下見板張り、二重目以上が漆喰塗籠となっています。
築城者・織田信康|犬山城の礎を築いた信長の叔父

犬山城の歴史は、天文6年(1537年)に織田信康が木之下城から城を移したことに始まるとされています。織田信康は、織田信長の父である織田信秀の弟にあたる人物です。つまり、織田信長にとっては叔父にあたる存在でした。
織田信康の生涯と功績
織田信康の生誕年は明確にはわかっていませんが、織田一族の中で重要な位置を占めていたことは間違いありません。信康は木曽川沿いの戦略的要衝である犬山の地に城を築き、この地域の支配を固めました。築城に際しては、元々あった木之下城を現在地に移転する形をとったとされています。
稲葉山城攻めと織田信康の最期
天文16年(1547年)、織田信秀が美濃の斎藤氏を攻めた「稲葉山城攻め」において、織田信康は兄とともに出陣しました。しかし、この戦いで信康は命を落としたとされています。なお、没年については天文13年(1544年)の「加納口の戦い」での戦死とする説もあり、正確な時期については諸説あります。
築城の背景と目的
織田信康が犬山城を築いた背景には、尾張と美濃の国境を守るという軍事的な目的がありました。木曽川を天然の堀として利用し、北からの侵攻に備える構えを整えたとされています。また、木曽川の水運を掌握することで、経済的な利益を確保する狙いもあったと考えられています。
犬山城の初期の姿
築城当初の犬山城は、現在のような立派な天守を持つ城ではなかったとされています。当初は砦に近い規模であり、その後の歴代城主によって段階的に整備が進められました。現在の天守は、天正年間(1585年〜1590年頃)に建造されたものと考えられています。
織田信康から織田信清へ
織田信康の死後、犬山城は息子の織田信清に引き継がれました。この継承により、犬山城は引き続き織田一族の支配下に置かれることとなりました。しかし、やがて織田信清は織田信長と対立することになり、犬山城は新たな激動の時代を迎えることとなります。
戦国時代前期の城主たち|織田家内部の抗争と犬山城
織田信康の死後、犬山城は戦国時代の動乱に巻き込まれていきます。この時期の城主たちは、織田家内部の権力闘争や、近隣諸国との戦いの中で城主の座を争いました。犬山城の戦略的重要性ゆえに、この城をめぐる攻防は激しさを増していきました。
二代目城主・織田信清の時代
織田信康の息子である織田信清は、父の死後に犬山城主となりました。信清は織田信長の従兄弟にあたり、当初は信長と協力関係にあったとされています。永禄2年(1559年)には、信長とともに守護代・織田信賢の岩倉城を攻め落とす戦いに参加しました。
織田信清と織田信長の対立
しかし、岩倉城攻略後の所領配分をめぐって、織田信清と織田信長の関係は悪化したとされています。信清は美濃の斎藤龍興と結び、信長の背後を脅かす存在となりました。犬山城は木曽川一帯を掌握する重要拠点であり、この対立は信長にとって看過できないものでした。
犬山城をめぐる織田信長と織田信清の対立
| 年代 | 出来事 |
|---|---|
| 永禄2年(1559年) | 信長と信清が協力して岩倉城を攻略 |
| 永禄4年(1561年) | 信長が小口城への攻撃を開始 |
| 永禄6年(1563年) | 信長が小牧山城を築城し拠点を移転 |
| 永禄8年(1565年) | 犬山城落城、信清が甲斐へ逃亡 |
信長による犬山城攻略戦
織田信長は、犬山城を攻略するために多角的な戦略を展開したとされています。永禄4年(1561年)から小口城への攻撃を開始し、永禄6年(1563年)には本拠地を清洲城から小牧山城に移しました。この移転は、犬山城攻略を見据えた戦略的な決断であったと考えられています。
犬山城の落城と織田信清の逃亡
永禄8年(1565年)2月、織田信長は犬山城への総攻撃を開始しました。この頃には信清の家老が信長に寝返り、犬山城は完全に孤立していたとされています。最終的に犬山城は落城し、織田信清は甲斐国へと逃亡しました。これにより、犬山城は信長の支配下に入ることとなりました。
信長支配下の犬山城
犬山城を手中に収めた織田信長は、この城を美濃攻略の前線基地として活用したとされています。その後、信長の家臣である池田恒興が城主として入城し、犬山城は新たな時代を迎えることとなりました。
池田恒興と本能寺の変後の城主たち|激動の安土桃山時代

織田信長の尾張統一後、犬山城は信長の重臣たちによって治められるようになりました。特に池田恒興は、信長との特別な関係から犬山城主に抜擢された人物として知られています。本能寺の変以降は、豊臣秀吉の勢力拡大とともに城主が頻繁に交代する激動の時代となりました。
池田恒興|信長の乳兄弟として犬山城主に
池田恒興(いけだつねおき)は、天文5年(1536年)に尾張国で生まれました。母の養徳院は織田信長の乳母であり、後に信長の父・織田信秀の側室となった人物です。このため、恒興は信長の乳兄弟として幼少期から深い関係にありました。
元亀元年(1570年)の姉川の戦いで活躍した恒興は、その功績により犬山城主に任じられ、1万貫を与えられたとされています。信長の信頼厚い家臣として、犬山城を拠点に活躍しました。
本能寺の変と清洲会議
天正10年(1582年)に本能寺の変が起こると、池田恒興は織田家の重臣として清洲会議に出席しました。この会議では、羽柴秀吉、柴田勝家、丹羽長秀とともに織田家の後継問題を話し合いました。恒興は会議において重要な役割を果たしたとされています。
小牧・長久手の戦いと池田恒興の最期
天正12年(1584年)、小牧・長久手の戦いが勃発しました。この戦いでは、羽柴秀吉方と織田信雄・徳川家康方が対立しました。池田恒興は秀吉方として参戦し、犬山城を攻略して本陣を構えましたが、同年4月9日の長久手の戦いで討死しました。享年49歳であったとされています。
豆知識:小牧・長久手の戦いと犬山城
天正12年3月、羽柴秀吉は犬山城を本陣として約3万の兵を率いて着陣したとされています。一方、徳川家康は小牧山城に陣を構えました。両城は直線距離で約8キロメートルの位置関係にあり、尾張平野を挟んで対峙する形となりました。
豊臣秀吉時代の城主たち
池田恒興の死後、犬山城は様々な武将の手に渡りました。織田信雄の家臣である武田清利や土方雄良が城主を歴任したとされています。しかし、天正18年(1590年)に織田信雄が豊臣秀吉の移封命令を拒否して改易されると、犬山城は豊臣秀次の所領となりました。
三好吉房と石川貞清
豊臣秀次の時代には、秀次の実父である三好吉房が城代として犬山城を管理したとされています。文禄4年(1595年)に秀次が切腹すると、石川貞清が城主となりました。石川貞清は、豊臣秀吉の使番として活躍した武将で、1万2千石を与えられて犬山城主となったと伝えられています。
関ヶ原の戦いと犬山城
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは、犬山城は西軍の拠点となりました。城主の石川貞清は西軍として参戦しましたが、岐阜城が落城すると他の武将たちは東軍に寝返りました。石川貞清は最後まで犬山城を守りましたが、最終的に城を放棄して関ヶ原に参陣し、敗北しました。しかし、東軍についた木曽衆を犬山城で解放した功績が認められ、助命されたとされています。
江戸時代初期の城主変遷|成瀬家入城までの道のり
関ヶ原の戦い後、犬山城は徳川家の支配下に入りました。しかし、成瀬家が城主となるまでには、いくつかの城主の交代がありました。この時期は、徳川幕藩体制が確立していく過渡期であり、犬山城の位置づけも大きく変化していきました。
小笠原吉次の時代
関ヶ原の戦い後、慶長6年(1601年)に小笠原吉次が犬山城主となりました。小笠原吉次は徳川家康に仕えた武将で、関ヶ原の戦いでの功績により犬山城を与えられたとされています。しかし、小笠原氏の犬山城支配は長くは続きませんでした。
平岩親吉と城代統治
慶長12年(1607年)には、平岩親吉が犬山城主となりました。平岩親吉は徳川家康の側近として知られる武将で、尾張徳川家の創設にも関わった人物です。親吉は甥の平岩吉範を城代として犬山城に置き、自身は名古屋で藩政に携わったとされています。
城主不在の時期
慶長17年(1612年)に平岩親吉が死去すると、犬山城は一時的に城主不在の状態となりました。この間、平岩吉範が引き続き城代を務め、城の管理を行ったとされています。この状態は、元和3年(1617年)に成瀬正成が城主となるまで続きました。
尾張藩の成立と犬山城の位置づけ
慶長15年(1610年)に尾張徳川家が成立すると、犬山城は尾張藩の重要な支城として位置づけられるようになりました。尾張藩主・徳川義直を補佐する付家老制度が整備される中で、犬山城の管理体制も大きく変わっていきました。
江戸時代初期の犬山城主変遷
| 年代 | 城主・城代 | 備考 |
|---|---|---|
| 慶長6年(1601年) | 小笠原吉次 | 関ヶ原の功により入城 |
| 慶長12年(1607年) | 平岩親吉 | 甥の吉範を城代に |
| 慶長17年(1612年) | 城主不在(平岩吉範が城代) | 親吉死去による |
| 元和3年(1617年) | 成瀬正成 | 尾張藩付家老として入城 |
付家老制度とは
付家老とは、徳川御三家(尾張・紀伊・水戸)に付けられた幕府直属の家老のことです。藩主を補佐するとともに、幕府と藩の間を取り持つ役割を担っていました。尾張藩には成瀬家と竹腰家が付家老として置かれ、両家は幕末まで重要な役割を果たしました。
成瀬正成の入城準備
成瀬正成が犬山城主となる背景には、徳川家康からの特別な信頼がありました。正成は幼少期から家康に仕え、多くの戦いで功績を挙げた武将です。平岩親吉の死後、家康の強い意向により、正成が犬山城主に選ばれたとされています。
成瀬正成|犬山城主となった徳川家康の忠臣
成瀬正成(なるせまさなり)は、戦国時代から江戸時代初期にかけて活躍した武将であり、犬山城成瀬家の初代当主です。徳川家康に幼少期から仕え、その生涯を通じて徳川家への忠誠を貫きました。元和3年(1617年)に犬山城を拝領し、以後約250年にわたる成瀬家による犬山城支配の礎を築いた人物として知られています。
成瀬正成の生い立ちと経歴
成瀬正成は、永禄10年(1567年)に成瀬正一の長男として生まれました。幼少期から徳川家康の小姓として仕え、家康のもとで武将としての素養を身につけていきました。天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦いで初陣を飾り、兜首を挙げる活躍を見せました。この功績により、家康から500石と脇差を賜ったとされています。
徳川義直の補佐役として
慶長12年(1607年)、成瀬正成は従五位下に叙せられ、隼人正を称するようになりました。慶長15年(1610年)には、尾張徳川家の祖である徳川義直の補佐役に任じられました。正成は尾張藩創成期の藩政を指揮し、藩の基盤固めに大きく貢献したとされています。
犬山城拝領の経緯
元和3年(1617年)、成瀬正成は徳川秀忠から犬山城を拝領しました。これは、平岩親吉の死後に空席となっていた尾張藩付家老の職を正成が引き継いだことによるものです。晩年の知行高は3万石に達し、尾張藩において重要な地位を占めていました。
豆知識:成瀬正成と日光東照宮
成瀬正成は寛永2年(1625年)に江戸で死去しました。正成の遺骨は、主君であった徳川家康を祀る日光山の家康廟の傍らに葬られたとされています。これは、家康への忠誠心の表れであるとともに、家康からの信頼の深さを示すものと考えられています。
成瀬正成による犬山城の整備
成瀬正成が犬山城主となった時期に、天守に改良が加えられ、現在の姿に近い形になったといわれています。正成は軍事面だけでなく、城下町の整備にも力を注ぎ、犬山の発展の基礎を築きました。
成瀬家の家格と特権
成瀬家は尾張藩の付家老として、藩主に次ぐ地位を占めていました。知行高は3万5千石に達し、独自の家臣団を持つことが許されていました。ただし、付家老は幕府直属の家臣という位置づけであったため、独立した大名としての格式は持っていませんでした。
初代城主としての遺産
成瀬正成が築いた犬山城支配の基盤は、以後9代にわたって継承されていきました。正成が確立した藩政の仕組みや城下町の構造は、江戸時代を通じて維持され、犬山の発展に大きく寄与したとされています。
成瀬家9代の統治|江戸時代を通じた犬山城の歩み

成瀬正成の後、犬山城は成瀬家によって9代にわたり治められました。江戸時代約250年間、成瀬家は尾張藩付家老として犬山城を守り、城下町の発展に尽力しました。各代の当主たちは、それぞれの時代の課題に向き合いながら、犬山の繁栄を支えていきました。
2代目・成瀬正虎の時代
成瀬正虎(なるせまさとら)は、文禄3年(1594年)に正成の長男として生まれました。慶長13年(1608年)に徳川秀忠の小姓となり、4千石を与えられました。万治2年(1659年)に隠居するまで、父の遺志を継いで犬山城と城下町の整備を進めたとされています。
3代目・成瀬正親による城郭整備
成瀬正親(なるせまさちか)は、寛永16年(1639年)に正虎の長男として生まれ、万治2年(1659年)に家督を継ぎました。この時、尾張藩から5千石の加増を受け、知行高は3万5千石となりました。正親の時代に松之丸や御殿の整備が進み、城下町の惣構えも築き直されました。城と城下町の構えはこの時代にほぼ完成したとされています。
成瀬家9代の犬山城主
| 代 | 名前 | 主な事績 |
|---|---|---|
| 初代 | 成瀬正成 | 犬山城拝領、藩政の基盤確立 |
| 2代 | 成瀬正虎 | 城下町整備の継続 |
| 3代 | 成瀬正親 | 城郭・城下町の完成 |
| 4代 | 成瀬正幸 | 安定期の藩政維持 |
| 5代 | 成瀬正泰 | 藩政の安定運営 |
| 6代 | 成瀬正典 | 文化事業の推進 |
| 7代 | 成瀬正寿 | 蘭学への関心、国際交流 |
| 8代 | 成瀬正住 | 幕末期の藩政 |
| 9代 | 成瀬正肥 | 犬山藩成立、明治維新 |
7代目・成瀬正寿と国際交流
成瀬正寿(なるせまさとし)は、蘭学に関心を持ち、オランダ商館長と親しい交流があったとされています。天守の最上階に絨毯を敷いたという逸話は、正寿の国際的な視野を示すものとして伝えられています。鎖国下の日本において、このような国際交流は非常に珍しいことでした。
江戸時代の犬山城下町
成瀬家の統治下で、犬山城下町は大きく発展しました。現在も残る江戸時代の町割りは、成瀬家時代に整備されたものです。商業や手工業が発達し、木曽川の水運を利用した交易も盛んに行われたとされています。
幕末期と9代目・成瀬正肥
9代目の成瀬正肥(なるせまさみつ)は、幕末の激動期に当主となりました。慶応4年(1868年)正月、悲願であった独立を果たし、犬山藩が成立しました。これにより、成瀬家は尾張藩の付家老から独立した大名としての地位を得ましたが、間もなく明治維新を迎えることとなりました。
成瀬家統治の特徴
成瀬家の約250年にわたる統治は、比較的安定したものでした。大きな内乱や飢饉による混乱もなく、城下町は着実に発展を遂げました。付家老という特殊な立場ながら、実質的には独立した領主として犬山を治め、その伝統は明治以降も引き継がれていきました。
明治以降の犬山城と成瀬家|個人所有から財団法人へ
明治維新後、日本各地の城郭は廃城令によって取り壊されるか、国や地方自治体の所有となりました。しかし、犬山城は成瀬家の個人所有という非常に珍しい形態をとることになりました。この「個人所有の国宝」という独特の歴史は、平成16年(2004年)まで続きました。
廃藩置県と犬山城の運命
明治4年(1871年)7月14日、全国で廃藩置県が断行され、犬山藩は廃止されました。これに伴い、犬山城は廃城となり、愛知県の所有となりました。多くの城郭が取り壊される中、犬山城の天守は幸いにも残されましたが、維持管理は容易ではありませんでした。
濃尾地震による被害
明治24年(1891年)10月28日、濃尾地方を襲った大地震は、犬山城にも大きな被害をもたらしました。この濃尾地震はマグニチュード8.0を記録し、全国で7,273人の死者を出す大災害でした。犬山城では天守の東南角の付櫓が崩壊し、天守自体も半壊状態となったとされています。
豆知識:濃尾地震の被害規模
明治24年の濃尾地震は、内陸直下型地震としては日本史上最大級の規模でした。死者7,273人、全壊・焼失家屋142,000戸という甚大な被害が発生しました。犬山城周辺でも多くの建物が倒壊したとされています。
成瀬家への無償譲渡
地震で被災した犬山城の修繕費用を捻出できなかった愛知県は、明治28年(1895年)に修理を条件として犬山城を成瀬正肥に無償で譲渡しました。これにより、犬山城は再び成瀬家の所有となりました。成瀬家は城の修復に取り組み、天守を現在の姿に復元しました。
国宝指定と個人所有
昭和10年(1935年)、犬山城天守は国宝保存法に基づき旧国宝に指定されました。昭和27年(1952年)には、文化財保護法に基づく国宝に再指定されました。国宝でありながら個人が所有するという形態は、日本で唯一のものでした。成瀬家は城の維持管理に尽力し、貴重な文化財を守り続けました。
昭和の解体修理
昭和36年(1961年)から昭和40年(1965年)にかけて、犬山城天守の解体修理が行われました。この際、濃尾地震で崩壊した付櫓も復元されました。また、天守の構造調査が行われ、建築史上の重要な発見がなされたとされています。
財団法人への移管
平成16年(2004年)3月末日まで、犬山城は日本で唯一の個人所有の城でした。しかし、維持管理の負担や相続問題などを考慮し、同年4月1日付けで財団法人犬山城白帝文庫(現在は公益財団法人)に移管されました。これにより、約400年にわたる成瀬家と犬山城の特別な関係は、新たな形で継続されることとなりました。
現在の犬山城管理体制
現在、犬山城は公益財団法人犬山城白帝文庫が所有・管理しています。財団の名称にある「白帝」は、犬山城の別名「白帝城」に由来しています。成瀬家の子孫も財団の運営に関わり、城と成瀬家の歴史的なつながりは今も大切にされています。
犬山城城主に関するよくある質問
犬山城とその城主について、多くの方が疑問に思われる点をQ&A形式でまとめました。城の歴史や城主に関する基本的な情報から、あまり知られていない豆知識まで、幅広くお答えします。
Q. 犬山城を最初に築いたのは誰ですか?
A. 犬山城は天文6年(1537年)に織田信康によって築城されたとされています。織田信康は、織田信長の叔父にあたる人物です。木之下城を現在地に移す形で築城が行われました。
Q. 犬山城の城主は全部で何人いましたか?
A. 犬山城は築城から平成16年(2004年)までの間に、27名が城主として在城したとされています。戦国時代には城主が頻繁に交代しましたが、江戸時代以降は成瀬家が9代にわたって城主を務めました。
Q. なぜ犬山城は個人所有だったのですか?
A. 明治24年(1891年)の濃尾地震で犬山城が被災した際、愛知県は修繕費用を捻出できませんでした。そのため、明治28年(1895年)に修理を条件として旧藩主の成瀬家に無償譲渡されました。以後、成瀬家が個人で城を所有し続け、平成16年(2004年)に財団法人に移管されるまで、日本唯一の個人所有の城として知られていました。
Q. 成瀬家はどのような家柄でしたか?
A. 成瀬家は、徳川家康に仕えた成瀬正成を祖とする家系です。正成は幼少期から家康の小姓として仕え、多くの戦功を挙げました。元和3年(1617年)に犬山城を拝領し、尾張藩の付家老として3万5千石を領しました。付家老は幕府直属の家臣という位置づけで、藩主を補佐する重要な役割を担っていました。
Q. 犬山城の別名「白帝城」の由来は?
A. 「白帝城」という別名は、江戸時代の儒学者・荻生徂徠が命名したとされています。木曽川沿いの丘上にそびえる犬山城の姿が、中国・長江沿いの白帝城を詠んだ李白の詩「早発白帝城」を想起させることから、この名が付けられたと伝えられています。
Q. 犬山城天守は日本最古なのですか?
A. 令和3年(2021年)の年輪年代法による調査の結果、犬山城天守は天正13年(1585年)から天正18年(1590年)にかけて建造されたことが判明しました。これにより、現存天守の中で最古であることが科学的に証明されたとされています。
まとめ|犬山城城主の歴史が教えてくれること
犬山城の歴史は、日本の城郭史の中でも極めてユニークな軌跡を描いています。天文6年(1537年)の築城から約500年、この城は27人もの城主を迎え、戦国時代の激動から江戸時代の安定、そして明治維新後の近代化まで、日本の歴史の縮図ともいえる変遷を経験してきました。
築城者の織田信康に始まり、信長との対立で落城した織田信清、信長の乳兄弟として活躍した池田恒興、そして江戸時代を通じて城を守った成瀬家9代の城主たち。それぞれの城主が、その時代の課題と向き合いながら犬山城の歴史を紡いできました。
特筆すべきは、成瀬家と犬山城の約400年にわたる関係です。元和3年(1617年)に成瀬正成が城主となって以来、江戸時代を通じて9代にわたり城主を務め、明治以降も個人所有という形で城を守り続けました。平成16年(2004年)に財団法人に移管されるまで、日本で唯一の個人所有の国宝として、成瀬家は犬山城とともに歩んできたのです。
現在、犬山城は年間を通じて多くの観光客を迎えています。国宝五城の一つとして、また現存天守最古の城として、その歴史的価値は計り知れません。天守からは木曽川の雄大な流れと濃尾平野の絶景を望むことができ、城下町には江戸時代の町割りが今も残っています。
犬山城を訪れる際には、ぜひ歴代城主たちの物語に思いを馳せてみてください。500年の歴史の中で、この城を守り、発展させてきた人々の営みを知ることで、犬山城の魅力はより一層深まることでしょう。城主たちが見つめた同じ景色を眺めながら、歴史のロマンを感じていただければ幸いです。
犬山城 基本情報
| 所在地 | 愛知県犬山市犬山北古券65-2 |
| 開城時間 | 9:00〜17:00(入場は16:30まで) |
| 入場料 | 大人550円、小中学生110円(2026年3月1日より大人1,000円、小中学生200円に改定予定) |
| アクセス | 名鉄犬山線「犬山遊園駅」より徒歩約15分、または「犬山駅」より徒歩約20分 |
| 管理者 | 公益財団法人犬山城白帝文庫 |

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